ひとりごと

思ったこと。考えたこと。好きなこと。何でも自由にぶつぶつと。

悲劇のヒロイン。

back numberの音楽を最近よく聞く。

特に「ハッピーエンド」と「幸せ」がお気に入り。共通しているのは、どちらとも幸せな曲ではないということ。

タイトルからは想像できない歌詞だ。

 

ハッピーエンドは、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の主題歌だった。

とても簡単に言うと、消えてしまう女の子が恋人を想う歌詞だ。

 

今すぐに抱きしめて

私がいれば何もいらないと

そう言ってもう離さないで

なんてね 嘘だよ さよなら

 

…切なすぎる。

 

 幸せは、好きな男の子に好きな人ができて、それでもやっぱり好き、という内容の歌詞だ。

 

最初からあなたの幸せしか願っていないから

例えそれが私じゃなくても

ちゃんと最後は

隠した想いが見つからないように

横から背中押すから

誰よりも幸せにしてあげて

 

こんなに好きになる前に

どこかで手は打てなかったのかな

私が選んで望んで恋したんだから

叶わなくても気持ちが伝わらなくても

こんな気持ちになれたことを大切にしたい

本当だよ

 

会いたくて でもほら横にいても

また辛くなってる

その人より私の方が先に好きになったのになあ

 

でも私があなたを好きなくらい

あなたも想っているなら

私じゃやっぱりダメだね

 

…ううう。しんどい。

 

 私は消えるわけでも、好きな人がいる男の子を好きなわけでもないけど、どこかで自分を重ね合わせてる。

あーわかるわかるってなる。

 

 最近同じように、あーわかるわかるってなったことがある。

あなたのことはそれほど」の第1話を録画で見た。

普段ドラマをほとんど見ない私には珍しく、放送前から興味があった。

その理由はいくつかあるけどここでは省略。

あーわかるわかるってなったのは、やっぱりどこかで自分を重ね合わせていたからだ。

今後どんな展開になるのか、楽しみだけど怖くて2話以降はまだ見ていない。

あーわかるわかる、が増えないことを祈る。

 

自分を重ね合わせる対象のほとんどが、幸せなものではないことが怖い。

「わたしは幸せじゃない」そんな考えが根本にあるようで、それが1番怖い。

「幸せ」って強烈に感じた出来事があると、それがいつまでも頭から離れない。

それと比べて「幸せじゃない」と思ってしまう。

美化された過去の「幸せ」にいつまでもしがみついていたら、新しい幸せに気づけないね。

結論:メンヘラ。

私のバイトは、バリバリの接客業だ。

商品を見ているお客様に声をかけるところから始まる。

最初から買う商品を決めて来てくださる方ももちろんいるけれど、ほとんどの方はその場で買う商品を決める。

お客様のニーズを引き出して、それに1番合う商品を提案するのが私の仕事だ。

接客スキルがそのまま売り上げに反映される。

 

もともと、接客業も含むような仕事に就くことを目指していたこともあって、他人と話すのは苦ではない。

でも他人に興味があるかというと、正直ないと思う。

矛盾しているようだけれど、私にはこの二面性があることに、今のバイト先に勤めてから気付いた。

 

思い返してみれば、昔から「嫌いな人」というのがいなかった。

「興味がある人」か「興味がない人」に、無意識に分けている。

そこには繋がりの深さは関係ないようだ。

初対面でも興味がある人もいるし、普段関わっていても興味がない人もいる。

「好き」「嫌い」と判断する前に、その人との関係を放棄してしまう。

こういうことは、誰にでもあることなのではないかと思う。

そして私の場合、圧倒的に「興味がない人」が多い。

 

バイトでは、初対面の人に興味を持つことが求められる。興味を持って質問しなければ、余程おしゃべりな方以外、ほとんど何も話してくれない。

他人に興味を持つ必要性を実感したことで、自分が恐ろしいほど他人に興味がないことに気づいた。

 他人に興味ばかり持っていたら疲れるし、ある意味上手い生き方をしているのかもしれない。

自分の心が冷めていることは昔から知っていたから、ショックでもなかった。

それどころか、やっぱり私はこういう人間なんだと納得して、自分が考えている私と実際の私が一致したことに安心した。

 

「興味がない」と思った人の中にも、素敵な人はいるだろう。

そういった人と関わる機会を自ら潰しているのは勿体無いことだ。

そこまで分かっていて直そうと思わないのは、自分の考えが正しいと思っているからだと、客観的にみて思う。

自分のことで手いっぱいな私に、他人のことを考える余裕はない。

そんな私に合った、他人との付き合い方だ。

 

こうして、私は自分を正当化する。

正当化なんて本当はしたくない。

自分が本当に正しいと思っていることを、実現する人になりたい。

そんな人になれるわけないと、メンヘラの私が言っている。しんどい。

自主休講。

「今年のゴールデンウィークは、4月29日〜5月7日の最大9連休です!」とニュースなどで何度も聞いた。

いちおう大学生の私は、そのうち2日間が通常授業で、6日間はバイトだ。連休どころか連勤だ。

昨日今日と授業があったけれど、特に今日は人が少なかった。いなかった人たちのほとんどは、「自主休講」だろう。

 

大学生の醍醐味は、自分の時間を自由に作れることだ。社会人になったらこんな身勝手なことは絶対にできない。

それを周りの社会人となった同級生から感じるからこそ、「自主休講」は悪いことではないと思う。

でも私は「自主休講」の恐ろしさをよーく知っている。特に、新学年に慣れてきたこの時期の「自主休講」は覚悟してするべきだ。

痛い目を見るのは、自分以外の何者でもないからね。

 

大学って何のために行ってるんだろう。

自分のため?

じゃあ、どうやったら自分のための大学生活になるんだろう?

ちゃんと授業受けて、いい成績とって、バイトもして遊んで…

でもそれって去年やったなあ、それで何が残った?

うーん、特に何も…むしろ今年の方が授業も怠けてるし…

あれ、私って何のために大学行ってるんだろう?

 

そんなことを繰り返し繰り返し考える。

(特に病んでいるわけではない)

自己顕示欲。

昔々、高校生だった私はブログをやっていた。

校則で禁止されていたから、鍵をつけて友達にしか見れないようにして。

なんとなく流行っていたから私もやってみよう、くらいの気持ちだったはずだ。

カリスマ高校生のような子達のブログを見て憧れていた記憶もうっすらある。

どんな内容を書いていたのか全く覚えていないけれど、きっとメンヘラなことをダラダラと書いていたのだろう。

飽きて更新しなくなったそのブログはどこへいったのだろう。消したのかさえ覚えていない。

 

なぜこのタイミングでブログを始めようと思ったかというと、自分の考えをまとめて書ける場所が欲しかったからだ。

今まで、そういった欲求TwitterInstagramFacebookで満たしてきた。私はそれら全てに鍵をつけて、自由気ままに好きなことを書いてきた。

でも最近、それらを更新するのが怖くなった。

「私のことを、いったい誰が知りたいのだろう?」と思うようになったからだ。

鍵付きのSNSで何かを発信したら、それが届くのはもちろん、私をフォローしている人に限られる。

私はその人たちに何かを伝えたくて、私の日常を見せているのだろうか。

そうではないと思う。受け取る側のことを考えて更新したことなんて、ほとんどない。

それなのに、自己顕示欲にまみれた情報を流している自分に嫌気がさした。

受け取る側のことを考える必要はないとも思う。その人たちに何か影響を与えられると思っているようで、もはや自意識過剰だ。

それでも、1度気になってしまうと無視出来なくなるのが昔々からの私の性格だ。

自分が嫌いになるという、苦しい状態から解放される方法を考えた。

誰でも見られる、しかも長くまとまった文章を書けるブログが、今の私に1番合ったSNSの使い方だと思った。

 

更新頻度も内容も、何も気にせずに書いていこうと思う。

誰にも見てもらえないのは悲しいから、Twitterから飛べるようにした。

わざわざ私のホームを見て、このブログにアクセスして、そして記事を開く人がいるのだろうか。

もしいたら、何かの折に教えて欲しい。